クレオパトラ、楊貴妃とともに世界三大美人のひとりとして知られる「小野小町(おののこまち)」ですが、出身地は秋田県の湯沢市小野だと言われています。
しかし、その詳細についての確実なものはなく、伝説・伝承・言い伝えや、史跡や書物などからの学者さんたちの研究による「可能性が高い」の範囲のものです。
今回は、その世界三大美人のひとりとされる小野小町についての伝承を、わかりやすく解説してみたいと思います。
小野小町の生い立ち
言い伝えによると、小野小町は、809年(大同4年)現在の秋田県湯沢市小野で、出羽郡司・小野良真(おののよしざね)の娘として産まれたそうです。
「大同」は、当時の年号です。
そして、「出羽郡司」とは何か?
まず「出羽」とは、今の山形県と秋田県のことです。
その時代の地方の行政区ですね。
「郡司」とは、その地方を治めるために中央政府から派遣されている役人のことだそうです。
なので、わかりやすく言うと、当時の秋田県小野村に、村長として国から派遣されてきている国家公務員・小野良実さんの娘として産まれたそうです。
しかも、この小野良真さんが秋田県に赴任中に地元の女性とのあいだにできた子供が小野小町だとのこと!
そして、派遣村長の娘として産まれた小野小町ですが、13歳まで秋田県湯沢市小野で過ごし、その後、都に上り、宮中の女官として務めたそうです。
「都(みやこ)」とは、首都のことで、当時の首都は京都でした。
「宮中(きゅうちゅう)」とは、今の皇居のことです。
「女官(にょかん)」とは、女性公務員のことです。
女性皇族のお世話などは男性ができないため、女性の職員が必要だったようです。
なので、小野小町は13歳まで秋田で育ち、13歳になったら宮内庁に就職して京都に行ったということになります。
小野小町は、とても優秀な女性!歌人としても活躍!
宮中に仕えるようになった小町は、その美しさと優れた才能から『多くの女官中、比類なし』と称されたそうです。
要するに、『女性公務員の中で一番優秀だ』と言われていたんですね!
小町の優れた才能のひとつに、「和歌」をつくる才能があり、当時の優れた和歌をつくる人たちのトップグループ「六歌仙」「三十六歌仙」「女房三十六歌仙」にも名前が入っています。
ここで、小町のつくった代表的な和歌をひとつ紹介します!
『花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に』
この和歌は、「古今和歌集」に出てくる和歌で、百人一首にも選ばれています。
なんとなく、聞いたことがありませんか!
小野小町と深草少将との悲しい恋物語
宮内庁に就職した小町は、そこで働き続けますが、その間ずっと故郷・秋田を恋しく思い続けていました。
その故郷を恋しく思う気持ちが消えることはなく、36歳のときに宮内庁を自主退職し、地元・秋田に戻ります。
そして、秋田に帰郷した小町を追いかけてきたのが、小町に恋心を抱いていた「深草少将(ふかくさのしょうしょう)」という京都で役人をしていた男性です。
深草少将は、小町を追いかけるために、自分から郡代職を願い出て、京都から秋田の小野にやってきたそうです。
「郡代職」とは、地方行政官のことなので、要するに京都の本庁で働いていた深草少将は、自ら秋田の小野村勤務を願い出て、小野村に赴任してきたということですね。
小野村に赴任してきた深草少将は、小町に会いたい旨のラブレターを送りますが、小町はすぐに会おうとはせず、
『私を心から慕ってくれるのなら、土手に毎日1株ずつ芍薬を植え、百株にしてくれませんか? 芍薬が百株になったら、お気持ちにこたえて、あなたと会いましょう』
と、伝えたそうです。
さすがモテモテの美女!
男を焦らしますね~(*´з`)
と、思いますが、実は小町、このとき「疱瘡(ほうそう)」という病気を患っていて、顔や体に水ぶくれが出来ていたそうです。
そして、百日もあれば疱瘡も治るだろうと、神社の清水で毎日顔を洗い、早く治るようにお祈りをしていたそうです。
なるほど!
自分を慕う男性に、疱瘡ができた顔を見られたくないという小町の女心から、深草少将への「芍薬」「百日」の対応だったんですね!
深草少将は、この小町からの返事を聞き、野山から芍薬を取ってきては1株づつ毎日植え続けました。
一日も欠かさず99本の芍薬を植え続け、いよいよ百日目の夜を迎えました。
しかし、この日は雨が降り続いたあとで、川に架かった橋もひどく濡れていました。
川に架かる橋の状況を見て、まわりの人たちは深草少将をとがめましたが、深草少将は、
『今日でいよいよ100日!』
『小町と会える日がきた!』
と、よろこび、百本目の芍薬を持って小町のもとへ向かいました。
しかし、小町のもとへ向かう途中、橋を渡った深草少将は、雨で増水した川に橋ごと流され、亡くなってしまったのです。
それを聞いた小町は、悲しみに暮れ、深草少将の亡骸を現在の「二ッ森」に葬りました。
そして、供養のために地蔵菩薩をつくり、向野寺(こうやじ)に安置したそうです。
その後、深草少将が植えた99本の芍薬には、99首の歌を捧げ、深草少将が秋田にきてから仮の宿としていた長鮮寺(現:桐善寺)には石碑を建てたそうです。
なんと切ない恋物語でしょうか…
(´;ω;`)ウゥゥ
じつは、小町も深草少将のことを想っていたんですね。
その後、岩屋堂に住んだ小町は、世を避けて生活し、92歳で亡くなったとされています。
小野小町を偲び、つくられた「小町堂」
村長の娘として産まれ、平安の歌人として名を上げた小野小町。
そして、深草少将との悲恋。
その後、92歳までの世を避けた隠居生活。
このような人生を送ったとされる小野小町を偲ぶためにつくられた御堂があります。
それが湯沢市小野にある「小町堂」です。
「小町まつり」も、この小町堂を会場に開催されます。
小町まつりのときに、年に一度だけお堂が開けられ、なかに入っている木彫りの小町像を見ることができます!
小町堂のまわりには、小野小町の伝説に登場する史跡や寺院などがあり、世界三大美人・平安の歌人である小野小町のロマンに触れることができます!
皆さんもぜひ、平安のロマンを感じることができる小町堂を訪れてみてはいかがでしょうか!
また、湯沢市のお隣り・横手市は、世界遺産「平泉」を建設するきっかけとなった合戦「後三年合戦(後三年の役)」が繰り広げられた地であり、「平泉」を建設した藤原清衡(ふじわらのきよひら)が、7歳から後三年合戦を平定させ、「平泉」に移り住むまで居住していた地です。
歴史的な史跡なども点在するので、平安のロマンを感じることができます!
小野小町の里・湯沢市とあわせて散策すると、より平安の風を感じることができるのでオススメです!